福正寺縁起(沿革)

 當寺は天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺であり、今よりおよそ千二百年ほど前、淳和天皇の時代、天長五年(西暦八二八年)、天台宗第三代座主慈覚大師円仁師によって開かれた寺院で、慈覚山瑠璃光院福正寺と称し、本尊は薬師瑠璃光如来であります。
 創建当時は壮大なる本堂、庫裡を有し(本堂、間口十二間三尺・奥行十二間三尺、庫裡、間口十一間・奥行五間三尺)、関東においても有数なる名刹の一つとされましたが、往年の火災により伽藍を焼失するとともに、明治の廃仏毀釈、戦後の農地解放等により寺領を没収され、現在に至っております。
 今より約六百三十年前、永徳三年(西暦一三八三年)にお亡くなりになられた、中興永海師により再建され、創建当時に復旧したと言います。
 その後、明治三十一年、再度火災に遭い、本堂庫裡等の伽藍を焼失いたしました。したがって檀信徒の皆様に浄財を勧進し、先ず明治三十三年に、民家を移築し庫裡の再建を完成し、暫くして大正十三年、薬師堂を移築し仮の本堂といたしました。
 古来の書物によりますと、本尊阿弥陀如来とあるものもありますが、その時以来、本尊として薬師瑠璃光如来を奉安したものか不明であります。
 爾来、法燈を伝承してまいりましたが、本堂は甚だ狭く、老朽化が著しく、使用に堪えない状態となりましたため、昭和四十三年、宗祖伝教大師一千百五十年御遠忌に合わせ、浄財勧募を進め、檀信徒の皆様のご尽力により旧本堂を建て直し、小規模ではありますが、仮の本堂として再建することが出来ました。
 昭和三十一年、戦時中に供出いたしました梵鐘を再鋳し、唯一火災から免れた鐘楼上に掲げ、當山の象徴といたしました。しかしながら、その鐘楼も昭和五十四年の台風のため倒壊いたしました。幸い梵鐘は無事であったため、昭和五十八年、宗祖伝教大師御出家得度千二百年のときに合わせ、鐘楼の再建、並びに山門、庫裡の建設工事の完成を見ることができました。
 平成七年、慈覚大師御生誕千二百年、高祖天台大師千四百年大遠忌に合わせ、寺檀一致協力し、老朽化した元の庫裡を取り壊し、新たに客殿「瑠璃殿」を建立し、檀信徒の法要と修養の道場といたしました。
 平成二十四年、福正寺墓地内に、墓地継承者無き人のため、永代供養墓として、納骨堂「壽光廟」を建立し、同年、福正寺墓地西北側の土地を購入し、参詣者の為の駐車場といたしました。

 尚、当寺の境外仏堂として、指扇中郷(台)の薬師堂、指扇上郷(大木戸)の普門坊(十一面観音堂)、宝来の福寿庵(百観音)があります。

福正寺開創1200年記念事業 本堂改築

 當寺は天長五年(西暦828年)、天台宗第三代座主慈覚大師円仁さまにより開かれましてより、平成40年(西暦2028年)で1200年が経過いたします。
 開創1200年記念事業として、狭小であり屋根等の痛みが激しく、耐震的にも問題がある現在の本堂の改築を考えております。
 現在の本堂は、明治31年に火災の為焼失した本堂の代わりとして、明治33年に移築した薬師堂が老朽化したため、昭和43年に檀徒の皆様に物心両面から成るご喜捨を戴き建築したものでありますが、いかんせん急場しのぎの仮本堂的建築であったため、収容人数にも限界があり、屋根も張り出しを付けねばならないほど小さく、その屋根も痛みを増し、本堂内の荘厳も見劣りがするという有様でございます。
 したがって、開創1200年の嘉辰を迎えるにあたり、本堂改築事業を発願いたします。