インド禅定林参拝旅行記(1)(法話第20話)
インド禅定林落慶二周年記念法要と釈尊の聖地巡拝の旅 (平成21年2月7日~15日)
仏教が生まれた地インドに、天台宗の別院である「インド禅定林」が開かれ、落慶式が行われたのは去る平成19年2月8日のことでした。そのときにはまだ建物が完成していませんでした。そのインド禅定林で、今年の2月8日(日)、落慶2周年を記念して大法要と式典が開催されるということで、建物の進捗状況も確かめに行くということで、埼玉教区では有志を募り参拝団が結成され、天台宗の特定布教師として現地に赴きお参りさせていただきました。
2月7日(土)
成田発午前11時30分、シンガポール航空SQ-637便にてシンガポールを経由して、同じシンガポール航空SQ-438便で、インドの中央部にあるハイデラバードに現地時間 (インドと日本の時差は3時間30分)で午後22時25分に着き、その日はハイデラバードの空港近くのホテルに泊まるはずであった。
ところが成田発午前11時30分のはずが、補助ブレーキの故障により遅れに遅れ、午後3時30分にやっと飛び立つ始末。シンガポールに着いたのは午後11時10分。ハイデラバードに行く飛行機には乗れず、空港で待機。何が何でもインドの国内にまず入りたいということで、8日午前2時35分発にてインドの首都であるデリーまで行くことに。その飛行機はシンガポール航空SQ406便でビジネスクラスの席に座ることが出来、ゆっくりと眠ることが出来ました。
2月8日(日)
午前5時20分デリー着。そこで今回の旅の現地ガイドであるアニ-ルさんと合流。デリーの国際線の空港から国内線の空港までバスで移動。9時15分発の国内便にてインドの臍とも呼ばれるナグプールに10時35分着。ナグプール空港の近くにあるプライドホテルにて少し休憩し、インド禅定林の法要のための法衣に身支度を整える。デリーの朝はちょっと寒いくらいの気候であったが、ナグプールはとても暑く、夏物の白衣の上にに直綴を着て、輪袈裟を着ける。法要のときには2年前に当地でいただいた山繭の如法会を纏う。
このホテルは2年前の落慶式に来たときに宿泊したホテルで見覚えがあり、なんとなく懐かしくなる。プライドホテルを午後12時30分に発ちバスにてポーニ村に向かう。ガタガタ道をバスに揺られること約2時間30分。午後3時にやっとポーニ村に到着。
待ち構えていたインド禅定林の住職サンガ・マナケ・法天師や天台宗務庁の谷総務部長、延暦寺の横山総務部長らが出迎えてくれる。時間も予定より遥かに遅れているので、休むまもなく「禅定林落慶 二周年記念式典」に臨んだ。
式典会場は禅定林本堂の前に大テントが張られ、多くの村民 たちが見守る中、開式された。この、いわばお祭りに集まった人たちは、当局の発表によるとおよそ10万人にも及ぶといわれている。
住職であるマナケ師の挨拶のあと、多くの来賓たちの挨拶が続く。その挨拶が皆長い。聴衆に話の意味が伝わっているのかどうかは不明であるが、最初のうちはよく聴いていた。ところが時間が経過してゆくうちに、さすがに飽きてきたと見えて、隣としゃべったり、席を移動したり、だんだんと聴衆の数も少なくなってくる。それにもめげず来賓の挨拶は続く。やがて埼玉教区団を代表して吉田宗務所長の挨拶と番となる。聴衆は日本から来た偉いお坊さんとということで聴き入るが、マナケ師の通訳がした言葉がどこまで真意を伝えているは、我々は知る由も無いのは当然のことであった。
式典の間、若いインド人の女の子がコップに水を入れて運んできてくれる。1杯目はおいしくいただいたが、後はもう飲む気がしなかった。それほど喉も渇いていなかった。
永遠2時間にわたる演説会の式典が終わると、禅定林に本堂の中に移り、簡単な法要をして落慶二周年を祝った。
まだ建物は完成しておらず、2層目の屋根は乗ったが、その上に立てるはずの相輪塔が本堂の前に横たえられており、それを立てる手はずが調わないという。屋根もまだ葺かれておらず、ガラスや扉の建具類も取り付けていない。しかし内陣にはご本尊の釈迦三尊像や天台、伝教の両大師、それにインドでは偉大なるアンベドカル菩薩像が安置され、お堂としての趣は伝わってくる。
法要が終わり、記念の写真を撮り、時間もだいぶ経過していたので、衣体を着替えて禅定林を離れてナグプールのプライドホテルに戻ったのは、午後8時30分であった。
皆でホテルで夕食を取り、その夜はゆっくり休むことができた。