インド禅定林参拝旅行記(2)(法話第21話)

  インド禅定林落慶二周年記念法要と釈尊の聖地巡拝の旅 (平成21年2月7日~15日)
                        その2
 2月9日(月)
 午前6時起床。7時に朝食をとり、8時にプライドホテルを出発。ナグプール空港を9時25分に発ち、11時、デリー(インデラ・ガンディー)空港国内線ターミナル到着、徒歩で国際線ターミナルまで移動し、空港内のレストランを借りて和食弁当の昼食。
 デリー国際空港を午後14時30分発、ラクノー空港に午後16時30分到着。ラクノーを17時に出発し、バスにて180キロメートルの道のりを一路、釈尊が最も好まれたといわれる精舎の一つであるシュラバスーティー「祇園精舎」へ向かう。午後23時25分、シュラバスティーのパワンパレスホテルに到着。遅い夕食を取ってすぐに眠りに着く。
 シュラバスティーには、遺跡としては祇園精舎である「サヘット」と、コーサラ国の都「マヘット」があります。この地は釈尊が『阿弥陀経』を説かれた地として有名です。

 2月10日(火)
 午前8時、リキシャにて祇園精舎である「サヘット」とコーサラ国の都「マヘット」の遺跡見学に。祇園精舎は、本来の名を「祇樹給弧独園精舎」といいます。
 釈尊当時、給弧独長者と呼ばれるスダッタという富豪が、釈尊の説法をコーサラ国の人々に聞かせたいと、釈尊をお招きしたいと思い、地面に黄金を敷き詰め林園を手に入れました。コーサラ国の太子である祇多太子はその事情を知り、その黄金で精舎を建てたといわれています。そこで、給弧独長者と祇多太子の二人の名から「祇樹給弧独園精舎」という名が生まれたといいます
 『平家物語』に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とありますが、当時は祇園精舎には鐘が無かったということです。
 午前9時45分、バスにて釈尊涅槃の地、クシナガラに向かって出発。
 午後14時40分、マハラジャの離宮であったところで昼食。部屋の中には、マハラジャがトラ狩りをしていたときの写真や、トラの剥製が飾ってあった。
 午後15時、カピラヴァストゥ「カピラ城」見学。
 

 カピラ城は、ティラウラコットとピプラワの二箇所がありますが、ピプラワに「ゴータマ・ブッダの遺骨及びその一族の遺骨」と書かれた壺がが発掘され、また近代にいたって、「カピラヴァストゥ」と刻まれた印章などが出土されているところから、ほぼこの地ではないかと推定されているが、まだ断定はされていない。なおこの地から発掘された仏舎利はデリーの博物館に保管されている。
 午後15時45分、カピラヴァストゥを発ち、クシナガラに向かう。午後21時10分、クシナガラ、ロイヤルレジデンシーホテル到着。

 2月11日(水)
 午前7時30分、釈尊涅槃の地であるクシナガラの涅槃堂、釈尊最後の説法の地、荼毘塚を見学。
 
 釈尊はこの地において、四本のサーラ双樹の間に身を横たえ、頭を北にして、顔を西に向け、右脇を下にして、静かに涅槃に入られました。阿難尊者を始め多くの弟子や人々は嘆き悲しみましたが、天上では釈尊が娑婆から戻られたということで、花の雨が降ったということでございます。
 午前9時30分、涅槃の地クシナガラを後にして、今度は生誕の地ルンビニーに向かって出発です。ルンビニーまでは187km、バスでひたすら走ります。
 途中にインドとネパールの国境があります。
 午後15時10分、インド国境着。簡単な入国手続きを経て、遮断機みたいな国境を通り過ぎるとそこはもうネパール。
 午後15時52分、ネパール着。インドとネパールの時差が15分間。したがって現在にネパール時間は午後16時07分。小一時間バスで行くとルンビニー園に到着します。

後17時、ルンビニー園に到着。駐車場からリキシャにてマーヤ堂があるところまで行きます。釈尊は紀元前463年父である浄飯王(スッドーダナ王)と母摩耶夫人(マーヤ妃)の間に生まれました。マーヤ妃が実家であるデーバハダ城へ出産のため戻る途中、この地において、無憂樹の下にて母の右脇より生まれ、七歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられております。この地には現在マーヤ堂が建てられ、近くに産湯の池やアショカ王柱があります。
 長い一日の行程を終え、18時20分に法華ホテルに到着しました。このホテルは畳の部屋で、夕食も日本食でした。電力事情が悪く自家発電のため風呂の時間が限られ、テレビもつかず薄暗い部屋で、寝るしかない夜でした。
 次回に続く。

2009-06-04 インド禅定林参拝旅行記(3)(法話第22話) インド禅定林参拝旅行記(1)(法話第20話)
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