「和」について(第41話)

 和を以って貴しと為す(「以和為貴」)とは、聖徳太子が「十七条憲法」の冒頭に説かれた項目です。
 この「和」ということについて、天台宗埼玉教区の研修会で勉強をいたしました。今回はそのことについてご報告いたします。

 時は平成29年3月14日、会場は喜多院斎霊殿。埼玉教区内寺院の住職、法嗣と伝道師の方々約60名ほどが出席されました。
 講師は東京大学教授の頼住光子先生。ご専門は、倫理学、日本倫理思想史。主に扱ってきたテキストは、道元『正法眼蔵』や親鸞『教行信証』などの日本の仏教文献です。特に和辻哲郎によって切り拓かれた倫理学、日本倫理思想史だそうです。
 この報告では、先生がまとめられた研修会の資料を基にして、私なりに簡便に「和」ということについて述べてみたいと思います。

 仏教における「和」の捉え方として、基本的には人と人との調和的な間柄として言及されます。特に僧伽(サンガ)における和合(和敬)であります。僧伽(サンガ)とは出家者の集団であり、その共同生活の特徴は平等と和合です。
 古代インドではカースト制度が行われていましたが、仏教の教団は完全なる平等主義を貫き、教団内の席次は、法臘のみによって決まりました。このような人間関係はまさに「和」そのものでありました。

 大乗仏典では「和」について、『法華経』法師品に出てくる、いわゆる「弘教の三軌」なるものを挙げております。
 「弘教の三軌」とは、法華経を説くものは、如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐れ、と言う、いわゆる「室・衣・座」の三軌であり、如来の室とは大慈悲心であり、如来の衣とは柔和忍辱心であり、如来の座とは一切法空であることを示します。
 このうち如来の衣の「柔和」とは他者に対してもの柔らかい態度を取ることであり、「忍辱」とは他者から迫害されても耐え忍ぶことを意味します。
 「柔和」も「忍辱」もともに自他の調和、和合を意味しています。自分に害を与える者に対しても、自他の分け隔てなく調和的態度を取るようにと、『法華経』は説いています。

 このようなことが可能になるのは、まさに、その背後に、「慈悲心」と「一切法空」への理解があるからだといいます。
 慈悲と空とは大乗仏教の基盤となる考え方であります。

 「空」とは、何もなく空っぽということではなく、あらゆるものが、関係の中にあって、関係を担って、今、ここにおいてそのようなものとして成立しているということであります。不変の実体がないということが「空」であり、その意味で「関係的成立」とも言えるでしょう。
 このことは、自己が、自己として他から切り離されて独立して存在しているのではなくて、他との関係の中にあることを意味します。
 そして、このような自他不二である「空」を基盤として、仏教的な愛である「慈悲」が成り立つということです。   慈悲とは、「自己と他者との相互依存的関係」(=空)に基づいて、他者の喜びを自己の喜びとし(慈)、他者の悲しみを自己の悲しみとすること(悲)にほかなりません。

 仏教でいう「和」とは、世俗世界を超越した、全時空の全存在(一切法)がつながり合い、働き合う「空」なる次元を基盤にして成り立っているものであって、俗世における既存の閉じた共同体における自他のつながりを意味しているわけではありません。

 仏教における「和」とは、「空」に根差したものなのであります。

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